マーラー、交響曲「大地の歌」
Gustav Mahler, Symphonie "Das Lied von der Erde"


1908年完成。1911年初演。約60分。全6楽章

楽器編成:ピッコロ、フルート3、オーボエ3(第3はイングリッシュホルン持ち替え)、クラリネット(変ロ)3、同(変ホ)、バス・クラリネット、ファゴット3(第3はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、バス・テューバ、ティンパニ、大太鼓、シンバル、トライアングル、タムタム、鉄琴、チェレスタ、ハープ2、マンドリン、弦5部、テノール、コントラアルト(またはバリトン)

1.曲の概要 1911年11月、マーラーの死後、1年経って弟子のブルーノ・ワルターによって初演された交響曲「大地の歌」は、第8番の後、第9番との間に書かれた間違いなく彼の九つめの交響曲です。ベートーヴェン、シューベルト(当時ハ長調大交響曲は第9番)、ブルックナー、ドヴォルザークに関する第9番の宿命を避けてあえて番号なしにしたという、有名な逸話が残っていることはご存じの方も多いでしょう。つまり、第9番とつけてしまうと偉大な先輩作曲家同様、これが最後の交響曲になってしまうというジンクスを避けた訳、ということなのです。でも、本当かどうかは?????です。そこまでこだわってたなら、なんで次の第9番をあっさり「第9番」としたのか?絶対音楽だったからという説もありますが、そのままでは受け入れにくいのではないでしょうか?とにかくマーラーは1908年、48歳でニューヨークデビューを果たした年の夏、トープラッハでこの曲を完成しています。しかし、既に死の影は色濃く、特に第1,2,6楽章は厭世感と彼岸への憧憬にあふれた音楽です。しかし、マーラーの厭世感はチャイコフスキーに代表される悲哀感、悲愴感、あるいはニヒリズム、敗北主義等とは一線を画するもので、決して短調的悲哀感を浴びていないことが特徴です。むしろ耽美的、官能的な音色でもって死に直面して行くところに世紀末あるいはマーラー独特の世界が感じられます。これが、現代人に広く受け入れられる原因ではないでしょうか?とにかく、この曲は、最高の傑作です。オーケストレーション、展開法、対位法・・・・どれをとっても技術的にもすごい曲なのです。まだ聞かれたことのない方は、ぜひ一回、いえ、一回ではちょっと・・・なので、ぜひ聞き込んでみて下さい。
 さて、曲は6つの楽章からなり、奇数楽章にはテノールの、偶数楽章には(コントラ)アルトまたはバリトンの独唱が加わります。各楽章にはタイトルがついていて、それぞれ、T.大地の悠久を歌う酒の歌(Das Trinklied vom Jammer der Erde)、U.秋に寂しきもの(Der Einsame im Herbst)、V.青春について(Von der Jugend)、W.美について(Von der Schoenheit)、X.春に酔えるもの(Der Trunkene im Fruehling)、Y.告別(Der Abschied)、となっています。テキストは、なんと唐詩で、原作は李太白(李白)、孟浩然、王維、銭起など、これをハンス・ベートゲという人がドイツ語訳した「シナの笛」という詩集がベースになってます。特に李白の詩の持つ耽美的、官能的な世界がまさに晩年のマーラーの共感を呼んだことは容易に想像できます。
 この曲のように歌のついた曲は、その歌詞がまさに曲の解釈を与えているわけですから、詩の意味さえわかれば、比較的楽にその世界に入っていくことができます。他の交響曲ではそうはいかないものも多いのです。まさに詩の内容がマーラーの共感を呼び、マーラーがこの曲に託したメッセージともいえるでしょう。原詩はドイツ語なので、日本語訳を付けて、初めて聞く人のガイドになるように、以下、「適当に」、説明していきます。

2.解説 
 T.大地の悠久を歌う酒の歌(Das Trinklied vom Jammer der Erde)、李太白の原詩による:5分ほどの短い曲ですが、曲は3部からなります。まず、ホルンの咆吼とそれに応える弦の対話で始まると、すぐにテノールが、「金杯の酒は既に私を招くが、これを飲み干す前に一曲君に歌おう!」と痛切に歌い始めます。この出だしは何回聞いてもぐさりと心に突き刺さってくるほどの迫力です。荒れ果てた心の内を歌ううちに、「生は暗く、死も亦暗し!」(Dunkel ist das Leben ist der Tod!)という吐き捨てるようなせりふで一段落します。
 再び冒頭のホルンが帰ってきて、「この家の主よ、・・・」と歌い出し、やがて「時を得た一杯の酒はこの世の全ての王国に勝る!」と酒を称えていく頃は、少しイロニックな明るい響きを持つものの、すぐに「生は暗く、死も亦暗し!」のリフレインで一段落します。
 次の部分はまさに大地を称える歌、「蒼穹は永遠に青く、大地は悠久、春になればまた緑に溢れ、花が咲き乱れる。・・・・だが人間よ、お前はどれだけ生きられるのだ?100年に満たないはかない人生でその短さを楽しむのか?」と大地を称え、それとの対比で人間のはかなさを辛辣に吐露していきます。墓場にうずくまる猿の激しい描写によって最後のピークを築くと、「今こそ杯をもて。今こそこれを飲み干すとき。」、やがて三度目の「生は暗く、死も亦暗し!」のリフレインが聞こえ、低音弦のピチカートで重々しくこの楽章を閉じます。

 U.秋に寂しきもの(Der Einsame im Herbst)、銭起の原詩による:静かな弦の伴奏にのってオーボエの寂しい歌が聞こえると、アルトが晩秋の池の描写を始めます。池には冷たい風が渡り、夏、あんなに茂っていた蓮が黄金に色づいて枯れていきます。諦念、虚無感、これがこの楽章を象徴するのにもっとも適当な言葉でしょう。この楽章でのテーマは「私の心は疲れ果て・・・」(Mein Heltz ist muede.)です。なんともやるせない気分です。「孤独のうちに、こころゆくまで泣こう。・・・愛の太陽はもう一度あらわれて、私の涙を乾かしてはくれないのだろうか?」
 なお、オーボエの主要動機は、第1楽章の冒頭の動機のデフォルメであることは明らかです。マーラーが全曲を有機的統合するためにこのような工夫をあちこちでやっています。また、オーボエの主要動機に重なるクラリネットは、リュッケルトの詩による歌曲集の「真夜中に」の伴奏を連想させます。

 V.青春について(Von der Jugend)、李太白の原詩による:気分はがらっと変わり、はかない青春をしかし楽しげに回想します。トライアングルで飾られたフルートとオーボエの中国風のメロディーにのってテノールが「小さい池の真ん中に緑と白の陶器でできた四阿がたっている。」と歌い始めます。転調後、友達たちとの楽しい情景が描写されていきます。少しテンポを落として、「小さな池の水面では、全てのものが逆さまに映っている・・・」と歌い終わると、元の調、テンポに戻って、最初の旋律で、「すべてのものが、緑と白の陶器でできた四阿のなかで逆さまになっている。・・・友はきれいに着飾り、酒を飲み、語り合っている。」と楽しげに結びます。いかにも李白風の上品で洒落た詩と、それにぴったりとマッチした曲。まさにそんな楽章です。

 W.美について(Von der Schoenheit)、李太白の原詩による:この楽章も明るい旋律に満ちあふれていますが、後半の意味深げな詩には、やはり(大地の悠久との対比での)人間の無常さという全体のテーマが込められています。池のまわりに座って蓮の花を摘む少女達の姿は、第2楽章で追憶した風景なのでしょうか?
 ヴァイオリンとフルートで柔らかく始まり、やがてアルトが「若い少女達が岸辺で花、蓮の花を摘んでいる。・・・彼女たちは膝の上に花を集めて、お互いにからかいあったり叫びあったりしている。」そして、2楽章でも歌われた太陽が、ここでは、「黄金の太陽は少女達のきれいな体やかわいらしい眼を照らし、・・・」と情景を描いていきます。
 突然、そのとき弱音器をつけたトランペットの旋律にのって、少年達が荒々しく登場してきます。「見よ、うるわしき少年達が、向こう岸で駿馬を乗りまわしている。・・・蹄は花や草の上を越え、倒れた花を荒々しく踏みにじっている。馬の鬣は喜びに揺れ、なんと激しい息づかいか。」と激しく歌います。
 また突然、穏やかになって最初の旋律が返ってきて、少女達の様子を歌います。「黄金の太陽が少女達の姿を輝く水面に映し出す。そのなかで一番きれいな少女が彼に憧れの長い眼差しを送る。」と情景を歌いますが、詩は突然彼女の分析を初め、「彼女の誇らしげな態度は作り事に過ぎない。その大きな眼の火花の中に、熱い眼差しの暗がりの中に、彼女の心が揺れ動いている。」と、心の動揺を明らかにしていきます。第2楽章の諦観の世界への逃れられない運命を暗示した、楽しげなだけによけいに悲しい人間の無常観が込められている楽章です。

 X.春に酔えるもの(Der Trunkene im Fruehling)、李太白の原詩による:唐詩の一つのジャンルでもあると言えるかも知れない自暴自棄な主題を扱った李白の詩に、まさによくフィットした曲です。
 第1楽章の冒頭と関連した動機で始まるとすぐにテノールが、「人生が一つの夢に過ぎないのならば、どうして人は苦労したり悩んだりするのか。私はもう飲めなくなるまで一日中酒を飲もう。」と歌い始めます。中間部では、春が訪れ、鳥の歌に酔いしれる情景−このあたりでは、木管とヴァイオリンソロがしきりに啼き声を奏でます−を経て、また自暴自棄なせりふ「春が私にとっていったい何のためになるのか。私をただ酒に酔いしれさせておいてくれ!」を最後にこの楽章を閉じます。

 Y.告別(Der Abschied)、孟浩然、王維の原詩による:まずタムタム、低音弦の低いうなりの上にオーボエが重要な動機を示すと、ホルンがそれに応え、やがてヴァイオリンが引き継いで、音楽が夕闇迫る情景を暗示していくと、やがてアルトがモノローグ的に「陽は山並みの後に沈み、どの谷にも夕闇が冷え冷えと忍び寄ってくる。」と寂しげに歌い始めます。やがて、「見よ、ちょうど銀色の小舟のように、月が空に浮かんでいるのを!」を、しみじみと歌うあたりは、第1楽章との関連も感じられ、美しく、憧憬に満ちた部分です。一段落すると、今度は川の流れを暗示するハープが奏でる三連符にのせて、小川の情景を歌い始めます。この部分が、次の交響曲第9番の第4楽章で象徴的に再現されます。「せせらぎの音は闇を貫き、花は夕闇に色あせ、全ての望みは夢を見る。」やがて2楽章でのリフレイン「私の心は疲れ果て・・・」の旋律にのせて「疲れ果てた人々はやがて、忘れ去った幸福と青春を眠りの中で得るために家路をたどる」と歌い、「告別」の意味を暗示します。鳥が眠りにつくことを歌う頃には、木管がしきりに鳥の鳴き声をなきまねし、やがて楽章冒頭の旋律が返ってきます。
 こんどはオーボエではなくフルートがからむ中、二回目のモノローグで、松の木陰で最後の別れを告げるために友を待つ身の上を歌い、やがて「友よ、私は君のそばでこの夕暮れの美しさを味わいたいのに。長く待たせる・・・君はどこにいるのか?」、さらにテンションは上がって、「おお美よ!永遠の愛と生命に酔いしれた世界よ!」と結んでいきます。このあたりではオーケストレーションはさらに色彩的になり、まさに美の世界に酔いしれていきます。またリュッケルトの詩による歌曲集の「私はこの世に忘れられ」の木管旋律が象徴的に用いられています。突然、冒頭の旋律が返ってきますが、独唱はなく、オーケストラだけの長い間奏に入ります。独奏チェロも加わります。
 三回目のモノローグは、タムタムと低音弦だけが寂しく引きずる上に現れ、友が来て別れの杯を交わす情景を歌い出します。「彼は馬からおり、別れの杯を差し出した。彼は尋ねた。どこへ行くのか?また、なぜに? 彼は答えた。話すその声は曇っていた。『おお、我が友よ。この世では私は幸せを掴めなかった。わたしはどこへ行くのか?山へ入ろう。そして私の孤独な心に憩いを求めよう。』」再び小川の情景の動機が現れ、「故郷に向かってさすらおう。しかし遠くには行くまい。私の心は憩いを求める、そしてその時を待とう。」さらに高揚して、「愛するこの大地に再び春が来たとき、至る所花は咲き乱れ、緑は再び栄えるだろう。至る所、遠い果てまで輝くだろう・・・・永遠に。」このあたりでは、それまでの激しい感情がなんともいえず甘く美しい音楽の中で昇華していき、とぎれとぎれに「永遠に。(Ewig.)永遠に。・・・・」と歌う独唱は、チェレスタやハープ、マンドリンの奏でる分散和音の上で徐々に小さく消えていきます。この最後の部分は、一度聴いたら決して忘れられない印象を残して闇の中に消えていきます。

3.プライベートルーム 第1楽章の李白の詩、なんだか心にしみるものがあります。後半の酒の部分、今の言葉でいうとまあ、「人生は一時の夢、どうせそのうち消えてなくなるものだから、酒を飲んで楽しくいい夢を見たほうがしあわせだ。どうせ実際の人生なんてろくなことはない・・・・はかないもの・・・・・辛くて暗いもの・・・・・・・・でも、死も暗いもの」と、いったところでしょうか?なかなか示唆的ですよね。 さて、「大地の歌」をこれから聴こうとお思いの方、どの演奏で聴こうか?と迷うかも知れませんね。以下、ぼくの好みなので、決して押しつける気はございません。まず、(コントラ)アルトのかわりにバリトンを使ったもの(例えば、バーンスタイン指揮 T:キング Bar:フィッシャーディスカウ  ウィーンフィル)は最初の方にはあまりお勧めできません。やはり最初は声の鈍いアルトのほうが何となくよく合う気がします。個人的にはインバルやベルティー二のライブが気に入ってますが、CDではどんな演奏を聴かせてくれているんでしょうか?最近聴いた興味ある演奏はバレンボイム指揮、T:イエルサレム、 MS:マイヤー、シカゴ交響楽団 ってやつです。バレンボイムはこれまでマーラーはほとんど振ってなかったわけですが、さすがはあれだけワーグナーやってる指揮者だけあって情景、感情の表現はなかなか素晴らしいと感じました。 (Minagawa)